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飛鳥時代の大陸との関係 任那の滅亡。遣隋使の行き来

飛鳥時代の頃の日本は他国(大陸)と
どのような関係にあったのか、日本の歴史を紹介します。


5世紀にあらわれた五人のヤマトの大王(倭の五王)は
百済の後押しをして高句麗や新羅と戦いました。

しかし、百済の力が段々と衰えてきましたので、
その後押しをしていた日本の立場も段々苦しくなってきました。

倭の五王がしばしば中国に使いを遣わしたのは一つには、
中国の優れた文化を取り入れるためでしたが
もう一つには中国の皇帝から日本の立場を認めてもらって
朝鮮半島ににらみを効かせようと考えたからです。

ですから熱心に中国にお世辞を使っています。
けれどもそのくらいのことで高句麗や
新羅が大人しくなるはずはありませんでした。

やがて高句麗は百済の北の方を占領してしまいました。
百済は仕方なしに南隣りにある
任那の地方に領土を広げようとしました。

そして、日本に頼み込んで任那の四県を
わけてもらうことにしたのです。

ところがこれがもとで任那の人々は
日本を信用しなくなってしまいました。

その上、任那の日本府に遣わされていた
日本の役人たちも良くない人が多かったので
日本の信用は下がるばかりでした。

そして、ついに任那の人々のうちには
東の新羅と手を結ぶものさえ現れてしまったのです。

日本が朝鮮に持っていた植民地任那は
非常な危険に陥りましたが、もうどうにもなりません。

562年、新羅は任那の全てを占領してしまいました。
このため日本は朝鮮から大きく
一歩引き下がることになったのです。

これは新羅が強くなったことも原因です。

けれども、それとともに任那に対する日本の政治のやり方が
不味かったことや国内での豪族たちの勢力争いも原因だと言えます。

そのために任那の守りが手遅れになってしまったのでした。

この後任那の日本府を取り戻すことが
代々の天皇の目標、つまり日本の大目標となりましたが
ついに成功しませんでした。

聖徳太子も摂政になった頃は新羅を征伐して
任那の日本府を取り戻そうと考えていました。

けれども、とても成功しそうにもないので
きっぱりと諦めてしまいました。

その頃、中国では長い間の南北の対立がなくなり
久しぶりに全土が統一されたところでした。

これが隋の国です。

隋は政治の仕組みも整っており、
特に文化は目覚しく発達し国力は日の出の勢いで伸びていました。
聖徳太子は隋の目覚しい文化に強く心を惹かれたのです。

そこで聖徳太子は新羅征伐を
諦めるとすぐに隋と交わりを開くことにしました。

607年、聖徳太子は小野妹子を使いとして隋に遣わし、
国交を開くことを求めました。


このとき小野妹子が持っていた聖徳太子の
手紙(国書)には次のように書いてありました。

「日出処の天子、書を日没する処の天使に致す。つつがなきや」

これは「東の方の太陽が昇るところにある日本の天皇が
西のほうの太陽の沈むところにある隋の皇帝に手紙を差し上げます。
おかわりありませんか?」
という意味です。

少しもへりくだったお世辞がなく
堂々とした対等の文章です。

隋の皇帝煬帝は、生意気なやつと思いました。

けれども丁度、隋はそのころ高句麗征伐を計画していたので
日本とは仲良くしておいた方がよいと考えました。

そこで、煬帝は聖徳太子の求めに応じて国交を開くことにしたのです。

次の年、小野妹子は再び隋に渡りました。
そのときの国書にも大国隋に対して少しも引け目をとらない、
聖徳太子の逞しい心を感じることができます。

このとき小野妹子に従って八人の留学生が隋に渡りました。

この人々は中国に二、三十年のあいだ
留まっていろいろな中国文化を学び取りました。

ところが聖徳太子はこの人々が日本へ
帰ってくる前に亡くなってしまったのです。

けれども留学生たちの知識は645年から始まった
大化の改新の政治のときにたいへん役立ったのです。

これを見ても聖徳太子が目先のことだけにとらわれない
優れた政治家だったことがよくわりますね。

この後、614年に犬上三田耜(いぬがみのみたすき)が
隋に遣わされました。

しかし、618年に隋が滅びその後に唐がおこったので、
遣隋使はこれで終わり代わって遣唐使が始まりました。

飛鳥時代の文化は遣隋使や遣唐使の
行き来によって、ますます発達しました。



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