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律令による政治とは? 政治のしくみ、人々の身分、土地の制度。租税の決まり

今回は律令による政治について、日本の歴史を紹介します。


律は犯罪人を罰する法律で今日でいえば刑法にあたります。
令は、政・治のしくみや、官庁とか役人のことなどをきめた法律で、
今日でいえば行政法・民法などにあたります。

律令は、中国で、はやくから行われていたものです。

日本でも、それに習おうとい動きは、
大化の改新のときからありました。

けれども、これを日本に合うようにつくりかえるのに時間がかかり、
律令が完成したのは、七〇一年(大宝元年) で、
大宝律令がそれです。


律令による政治では、
都に神祇官と太政官という役所がおかれました。

太政官の下には、中務省・式部省など、
ハつの役所がおかれ、さらにその下には、
職・寮・司などという小さな役所がありました。

地方は、近江とか出雲のような国にわけられ、
国の中には郡、郡の中には里がおかれました。

国々には、国衙という役所がおかれ、
国衙のあるところを国府とよびました。

国の役人は国司といい、都から遣わされます。

また、郡や里の長は、郡司、里長といい、
その土地の有力者がなりました。

また、そのほか、とくに大切な地方には、
特別に役所なおきました。

都の政治を受け持つ京職、難波(大阪) の摂津職、
北九州の大敏府がそれにあたります。

律令制では、政府が役人を自由に決めたので、
中央の政府が強い力を握れるしくみになっていました。


人々は、すべて良民と賤民(せんみん)にわけられていました。
良民というのはふつうの農民以上のもの全部のことで
全人口の約九〇パーセントは良民だったと考えられています。

残りの一〇パーセントばかりが賤民になります。

賤民は、身分が低く、一人前の人間として扱ってもらえない哀れな人々でした。
そして、良民と賤民との結婚は、認められませんでした。

このほかに、特別の身分として、皇族がありました。

また、良民と賤民のあいだにあたるものとして、
品部(ともべ)・雑戸(ぞうこ)などがありました。

このように、律令のしくみの中では、
身分によって法律上のとりあっかいが、
全く不公平で、そこが今日と大きく違うところです。


全国の土地はすべて国のもの、つまり公地で、
これを六才以上の農民にわけて、耕させました。

土地をわけるには、人々の数を調べておく必要があります。

そのため、六年に一度、戸籍なつくり直し、
男には二段(約一五アール)、
女には、その三分のニの田を与えました。

この田のことを口分田といいます。

そして、人が死ねば、その人がわけてもらっていた土地は
国へ返す仕組みです。
これを班田収授法とよびます。

また、土地は、条里制といって、
碁盤の目のように正方形に区切られていました。


土地をわけてもらった農民は、
いろいろな種類の僻をおさめる義務がありました。

ただし、女子はぎという税だけを納めればよく、
庸・調などの税は、男子にだけかかりました。

その場合でも、21才から60才までの成年男子が中心でした。


租というのは、与えられた田一段について、
決まっただけの稲をおさめる税です。

令によれば、租は、はじめのあいだ、
田一段について、ニそく、ニわと決められていました。

田一段から、七二そくのイネがとれたとして計算すると、
これは、約三パーセントにしかならず、
あまり思い税とは言えません。


成年男子は、一年のうち10日間、都に出て、
政府のためにはたらく義務がありました。

これを才役とよびますが、実際に都にいかなくても、
代わりに布を納めればよいことになっていました。

それで、後には、みな布を納めるようになりました。
これを庸とよびます。


地方にはそれぞれ特産物があったので、
政府はそれを成年男子に、量を決めてわりあてました。
これが調です。

調は、絹・糸・綿・海産物など、
その種類はたいへんに多かったのですが、
そのうえに、染料・油・塩なども納めなければなりませんでした。

租・庸・調のうち、庸・調は、
農民が自分で都まで運んで、
政府に納めなければならなかったので、
都への往復の旅がたいへんでした。

租は、そのまま地方の役所のものになりました。


また、農民は、国司の命令で公のためのいろいろな力仕事をする義務がありました。
これを雑徭といいます。

雑徭は、どんなに多くても、年に60日以内と決まっていました。
つまり、国司は農民を、年に60日以上働かせてはいけない、
と決められていたのです。

ですから、もし、仕事が60日より前に済んだら
農民を帰してやるのが本当です。

それなのに、そんなとき、大抵の国司は、
農民を自分の仕事のために、働かせました。

そのため、人々は、60日いっぱい仕事をやらされました。


人々には、そのほかに義倉(ぎそう)・出挙(すいこ)・仕丁役などという、
辛い義務がありました。

義倉というのは、作物のできの非常に悪い年に備えて、
毎年決まった量のアワをださせることです。

また、出挙というのは、国司が無理に
高い利息を付けてイネを貸し付ける仕組みです。

このため人々は、イネを返すのにたいへん困りました。
仕了役というのは、50件につき、
ふたりの働き手を、都の政府に差し出すことです。

租税によって国民は安心や
平和といったものを手にしていたのかは疑問です。



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