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奈良時代の交通事情はどれくらい厳しいものだったのか?

今回は奈良時代の交通事情について、日本の歴史を紹介します。


奈良時代には、たいへん交通の設備が整いました。
奈良の都を中心に、日本の統一が大体でき、
役人が都と地方との間を行き来したのです。

九州の大宰府や陸奥(青森県・岩手県・宮城県・福島県)の
鎮守府(エゾ征伐のために置かれた役所)などへ
度々役人やその使いがいきました。

全国から庸や調を都へ運んできたり、
地方の人民が都で働くために

また兵士として、大勢旅をするようになりました。
奈良時代の末には、地方の荘園から、
都の貴族や大きな寺に年貢を運ぶ人夫もたくさん行き来したため、
道も整い水上交通も盛んになりました。

おもな道路


全国五八か国は、都と、その付近の四畿内(大和・河内・摂津・山城)、
および七道にわけられました。

四畿内は、後に和泉が河内から離れて五畿内となりました。
七道とは、都を起点とする7つの主な道路を中心にわけられた、
東海・東山・北陸・山陰・山陽・南海・西海の区域です。

このことから、全国を五畿七道という呼び方が生まれたわけです。
七道は地区の名前であるとともに、
その地区を貫いている主な道路の名前でもありました。

東海道は伊賀・伊勢(ともに三重県)から
東へ太平洋にそって常陸(茨城県)までの国々です。

東山道は近江(滋賀県)から東へ日本の中央部に沿って
陸奥(青森県・岩手県・宮城県・福島県)、
出羽(山形県・秋田県)までの国々です。

山陰道は丹波(京都府・兵庫県)から但馬(兵庫県)をへて、
石見(島根県)までの国々です。

山陽道は播磨(兵庫県)から西へ、
本州西端の長門(山口県)までの国々です。

北陸道は、若狭(福井県)から東へ、
越後・佐渡(ともに新潟県)にいたる国々です。

南海道は紀伊(和歌山県・三重県)、淡路と四国を指します。
西海道は、九州各国と壱岐・対馬の国々です。

山陽道は、大宰府にいたる重要な道なので
九州の筑前(福岡県)の一部を加えて大路とされ、
東海・東山両道は中路、その他一は小路とされました。

駅と駅昌


主な道路には、約16.5キロごとに駅がありました。
駅には旅行に使う駅馬がわかれ宿もありました。

大路の駅には20頭、中路の駅には10頭、
小路の駅には五頭の駅馬がおいてあり、
馬具やみのかさなどが備えてありました。
駅には駅戸という者がいました。

駅戸は、駅馬をひいたり、駅に泊まる役人の世話をしたり、
駅の費用をまかなう田を耕したりしました。

駅は陸路だけでなく、水駅といって川沿いにもあり、
船がおいてありました。

七道以外の小さな道にも、各郡ごとに馬がおかれました。
この馬を伝馬といい、伝馬を世話する伝戸もおかれました。

駅と駅鈴


宿に泊まったり、駅馬を利用できるのは、
政府の仕事で旅をずる役人に限られていました。

役人でも五位以上の者か、公の使者または、
急な用事を持つ者に限られていました。

庸や調を運んだり、政府の下で働いたりするために旅行する、
普通の人は、民家の軒先や、山や野原で寝たのです。

駅を利用する役人を、駅使とよびました。

地方で、政府に背くものがでたり敵が
攻めてきたりしたときに、いそいそ報告する、
臨時の駅使を飛駅、または飛駅使と呼びました。

駅使には、その資格を示す駅鈴が授けられました。
駅鈴をもっていると、人でも馬でも、
いるだけ集めることができるので、非常に重んじられました。

島根県の隠岐島の玉若酢神社には、二つの駅鈴が残っています。
次の歌から、駅鈴を鳴らして馬を走らせる駅使の姿がの忍ばれます。

すずが音の早馬駅の堤井の
水をたまえな妹が直手ゆ
(駅にやってきた、急ぎの馬の乗り手が、
駅の井戸で水を汲んでいる娘に
「あなたの手で水な飲ませてください」と頼んでいます)



関所


政府は大きな街道の特に大切なところへ関所をおきました。
いざというときには、ここを守って謀反人や
都へ攻め入ろうとする敵を防ぐのです。

関所の中で、一番大切なところが3つありました。

今の三重県にあった鈴鹿関、岐阜県にあった不破隠、
福井県にあった愛発関で、三関と呼ばれています。

いずれも、東国に対する守りのためにおかれたものです。
672年、壬申の乱のとき、大海人皇子が本拠を定めるため
東国へ逃げたとき、三関の1つである鈴鹿関を越えていきました。

三関より東へは、朝廷の力も及び難かったのです。

大海人皇子は、東国の兵を集め、不破関を越えて、
近江の都を攻め、大友皇子を自殺させました。

また、764年(天平宝字8年)に謀反をおこした藤原仲麻呂は、
越前(福井県)に逃げ出そうとしました。

ところが、愛発関で食い止められ、殺されてしまいました。
三関は以上のような役割を果たしてきたのです。

その他、東北地方には白河関・勿来関(ともに福島県)など、
古くからエゾを防ぐ大事な関所がありました。

くるしい旅


毎年冬になると、地方からたくさんの人夫が都へ上ってきました。
何十日も掛かって都へ税を運んだり、
政府の仕事をするために旅をしてきたのです。

人夫の中には病気や飢えや寒さのために、
野垂れ死にするものが少なくありませんでした。
彼らは駅馬や宿は利用できませんでした。

行基が建てた布施屋は、こうした人たちを泊めたり、
食べ物を施したりするところです。

当時は道も良くなかったし、橋のない川も多く、
長雨のときは特に困りました。

宇治橋をかけた道登や、多くの橋をかけた行基が、
人々から尊ばれたのもこのためです。

この頃、重いものを運ぶのにも、
車はほとんど使わず、馬の背に乗せていました。

陸上を運ぶことが難しい大量の荷物は、
水運を利用して運ばれました。

奈良や恭仁・難波などの都は、
水運に便利なてんを考えて、造られたものです。

淀川・木津川・宇治川をへて、
琵琶湖や瀬戸内海に通じています。

当時の船は小さくもろいので、
荒波に耐えることができません。

船の旅も、陸の旅に劣らないほど苦しいものでした。

現在とは比べ物にならない苦労があったようですね。


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