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摂関政治とは? 藤原道長とは?

今回は平摂関政治とは? 藤原道長とは?、日本の歴史を紹介します。



摂政と関白


摂政というのは、天皇に代わって政治をする役目です。
また、関白というのは、全ての役人の上に経って、
一切の政治に目を通すという役ですが、実際には、
摂政と同じように天皇に代わって政治をしました。

摂政は古くからありましたが、これになったのは、みんな皇族でした。
ところが藤原良房が皇族以外の人として、
初めて摂政になってからは、天皇の母かたの祖父であれば、
この役につくことが出来るようになりました。

関白は、この時代より以前には無く、藤原基経が最初でした。
これも誰でもというのではなく皇族以外の人で、
天皇と一番近い関係の人がなりました。

そのため、摂政や関白になるには、自分の娘を天皇の妃にし、
生まれた皇子が天皇になることが必要でした。

ですから、藤原氏は、政治の上で勢いを得てくると、
その地位をますます固めるために、自分の娘の生んだ皇子を、
皇太子にしようと、いろいろ手を尽くしました。

こうして、醍醐天皇から始まって、およそ170年ばかりの間は、
全て藤原氏の娘が生んだ皇子だけが天皇になりました。

この間には、藤原氏に関係の無い妃が生んだ皇子もたくさんいました。

また、天皇が位を譲りたいと思う皇子もいました。
しかし、藤原氏に関係のない皇子は、
決して天皇になることが出来ませんでした。

そして、藤原氏でも、天皇の母の父、つまり祖父が、
天皇の小さい間は摂政となり、大きくなると関白になって、
政治を思うままに動かしました。

そのため、天皇の力は、名ばかりのものとなりました。
摂関政治といわれるのは、このためです。
そのほか、摂政・関白以外の高い官位も人すべて、
藤原氏が独り占めにしていました。

藤原氏北家の勢い


平安時代の中頃になると、
藤原氏を名乗る人々が非常に多くなっています。

不比等の四人の子どもがたてた四家の子孫が、
いずれも増えたからです。

中でも、北家の房前の子孫の増え方は、
ものすごく、その勢いも、一番強くなりました。

良房も基経もこの北家の人でした。
そして、摂政や関白は、いずれも、
北家の人々がなるという習わしが、
いつの間にか出来ました。

しかし、この北家も、さらにいくつかにわかれました。
そこで、これらの間で、摂政・関白になろうと争うようになりました。
叔父と甥が争ったり、兄と弟が争うという、
醜い競争が繰り返されたのです。



藤原澄長


このような藤原氏内部の争いに勝ち、
最も大きな勢力を持ったのが藤原道長でした。

藤原道長は、人物が優れていたのと、一条天皇の母であり、
道長にとっては、姉にあたる詮子が、見方をしてくれたため、
激しい勢力争いに、勝つことが出来たりです。

藤原道長の三人の娘は、次々と三代の天皇の妃となり、
その妃が生んだ皇子が、また次々と、
三代も引き続いて天皇になりました。

つまり藤原道長は、三代の天皇の祖父になったのです。
三人目の娘が、妃になったときには、
さすがの藤原道長も得意の心を隠すことが出来ませんでした。

そのお祝いの日に、次のような歌を詠んで人々に示しました。

この世をばわが世とぞ思う望月の
かけたることりなしと思えば
(この天下は私のものだ。
満月には何処にも欠けたところが無いように、
私には、何1つ不足なことがないのだから)

この歌のように、藤原道長は自分の思う通りに振る舞いました。
藤原道長は、ほんの短い間摂政をしただけで、
関白になったことはありませんでした。

けれども、後の世の人々は間違って
道長のことを御堂関白と呼んでいます。

これは藤原道長が、関白のように政治を思うままに行ったからです。
藤原氏は、道長と道長の子の頼通の頃が、一番栄えたときでした。

丁度、10世紀の終わり頃から、11世紀の初めにかけての、
およそ50年間ぐらいの間です。
文化も、この頃がいちばん華やかでした。



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