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貞永式目・御成敗式目とは?

今回は貞永式目・御成敗式目について、日本の歴史を紹介します。


義時が死ぬと、その子どもの泰時が執権になりました。
まもなく、政子が死に大江広元も死にました。

泰時は日本の政治を動かしていくだけの
力を充分もっているという自信がありました。
泰時は新しいしっかりした政治の仕組みを次々と作りました。

泰時は、十数名の武士が集まり、相談して裁判や政治をするという
合議政治を行いました。これに参加した人を評定衆といいます。

また泰時は、武士の法律を作らねばならないと考えました。
それまでの法律は500年ほど前にできた法律しかなく、
武士の世に合いませんでした。

1232年(貞永元年)武士にとっての
最初の法律である貞永式目が出来上がりました。
泰時が執権になってから9年目のことです。

貞永式目は51か条からなり、御成敗式目ともいいます。
これは後の室町幕府にも重んじられ
戦国時代の大名の法律にも大きな影響を与えました。


北条氏の力は、泰時とその孫の時頼のときが、一番盛んでした。
泰時が死ぬと、孫の経時が執権の位を継ぎましたが、
わずか4年で死んだので
経時の弟の時頼が執権となりました。

時頼は出家したので最明寺入道とも呼ばれ
御家人を保護するための幾つかの決まりをたてました。

引付衆というのも、その1つです。
1249年(建長元年)時頼は御家人の裁判を専門に取り扱う役所をつくりました。
これが引付衆です。時頼は執権やめてから諸国を周って地方の様子を
見て周ったという伝説があります。

後に出てくる「鉢の木物語」は、このときの出来事を話にしたものといわれます。

北条泰時や、時頼などが執権になる頃は、幕府の様子も、だんだんと変わってきました。
幕府はもともと源氏の幕府であって、源氏の人々が将軍になるのが普通でしたが、
実朝が殺されてから、今までとは違う人を京都からつれてきて将軍としました。

初めは頼朝と血筋の繋がる藤原氏を連れてきましたが
後には皇族をつれてくるようになりました。



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