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江戸幕府の政治 旗本と御家人とは? 

今回は江戸幕府の政治について、日本の歴史を紹介します。


旗本と御家とは?


幕府に直接、仕えるえる家来を
旗本・御家人といいました。

旗本と御家人の違いは
旗本は将軍に挨拶ができましたが
御家人には、その資格がなかったことです。

また旗本のほうは、一万石から100石ぐらいまでの
領地か、米を貰っていましたが
御家人は米を貰う者が多かったことです。

旗本も御家人も、将軍の家来として
大変威張っていました。

その数は、約2万2500人ほどでしたが
将軍に従って、戦に行くときには
決められた人数を部下として
連れていく義務がありました。

それを合わせると八万人に近くなり
「旗本八万騎」といわれたのも
けっして、嘘ではありませんでした。

このように幕府の武力は
どの大名よりも大きく
40人もの大名がカを合わせなければ
敵わないほど、強力だったのです。

幕府と皇室との関係


江戸時代になると
皇室や貴族は、どうなったのでしょう。

家康は、従夷大将軍の職を
天皇からももらって武家政治を始めましたが
その一方、朝廷をできるだけ
カの無いものにしようとうと努めました。

関ヶ原の戦いのすぐ後に
京都所司代をおいて
朝廷の見張りをさせました。

それだけでなく
法律をつくって朝廷をさらに抑えようとしました。

1615年(元和元年)に
禁中ならびに公家諸法度をさだめて
朝廷にまもらせようとしました。

それには、天皇は学問を
第一にしなければならないと書いてあります。

天皇に学問や和歌の研究だけさせて
政治から遠ざけようとしたのです。

また、公家の席順にロをいれ
武士の官世は、幕府が申し出たときだけ
朝廷から与えられるように決めました。


こうして、朝廷と大名とが
結びつかないように気をくばりました。

皇室の領地は、室町時代の終わり頃には
わずか3000石ぐらいに、減っていました。

秀吉のときに7000石になり
家康も少し増やして一万石にしました。

その後、また二万石を幕府がおくったので
三万石になりました。

これに上皇の領地一万石と
皇族や公家の領地などを合わせると
約10万石ほどになりました。

こうして朝廷は、大体十万石の
大名くらいになったわけです。

しかも皇室の領地は
幕府の代官が治めていたので
朝廷の思う通りには、ならなかったのです。

だから、朝廷の生活が
だんだん、行き詰ってくると
旗本と同じくらいしか収入のなかった
公家も暮らしに困る者が多くなりました。

そのため、公家たちは
いろいろな芸事の家元になって
収入を増やそうとしたり
カルタを作ったりして
内職をしなければなりませんでした。

神社と寺


神社や寺も幕府から、
厳しい取り締まりを受けて
その勢いは、たいへん弱くなりました。

大きな神社や寺は
長いあいだ荘園領主として
広い領地を持ち、たくさんの僧兵を抱えて
勢いをふるっていました。

やがて信長が現れると
武力で、それらの神社や寺を抑え
領地をけずりました。

江戸幕府も、それと同じ方針を受け継ぎ
寺社奉行をおいて取り締まったりで
神社や寺は、もう昔のような
勢いを持たなくなりました。

中には、将軍の墓のある増上寺のように
だんだん領地を幕府から増やしてもらって
一万石にもなった寺もありますが
古くから続いた大きな寺は
一般に衰えていきました。

幕府は神社や寺の勢いを弱くした上で
これを利用しようとしました。

とくにキリスト教の取り締まりに利用し
全国の町や村の人々は、誰でも必ず
その土地の寺の信者になり
キリスト教の信者でないという
証明をしてもらうことに決められました。

そればかりでなく
奉公にでたり、お嫁にいったりするときにも
同じ証明を貰うことになりました。

このため、寺と檀家の繋がりができ
僧の暮らしも、楽になりました。

しかしその一方、僧の中には
修行も積まないで、堕落する者も現れ
仏教も次第に葬式のときだけのものに
なっていきました。

この頃、新しくおこった仏教には
黄葉宗という禅宗の一派がありました。

これは江戸時代のはじめに
隠元という僧が、明(中国)から渡り来て
伝えたものです。

隠元は宇治に万福寺などを建て
教えを広めました。


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