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政党のおこリ 板垣退助・大隈重信とは?

今回は政党のおこリ 板垣退助・大隈重信について、日本の歴史を紹介します。


自由党とは?


国会開設をもとめる運動が高まると
政府もこれを抑えきることは
できないと考えました。

また政府もゆくゆくは
国会を開こうという考えを持っていました。

ただ民権遺動の人々は
すぐにでも開こうと主張し
政府は、まだその時期ではないと
考えていたのです。

しかし、民権運動が激しくなったため
ついに政府も国会を開くことを定めて
1881年(明治14年)の10月に
勅諭をだしました。

そして、九年さきの1890年(明治23年)に
いよいよ国会が開かれることになりました。

国会開の勅論がでると
自由民権運動をしていた人々は
政党をつくることをはじめました。

国会期成同盟は
板垣退助を総理(総裁)として
自由党をつくりました。

これは国会による
新しい政治のための用意でありました。

自由党の幹部は
撚垣のほかに
後藤象二郎・中島信行
末広重恭・馬場辰猪
竹内綱・大石正己などで
このほか、植木枝盛・中江兆民
大井憲太郎などもいました。

自由党は、人間の自由を広め
権利をまもり、幸福をはかって
よりよい社会をつくっていくことを
目的とする、政治の団体で
これが日本の政党のはじまりです。

板垣退助とは?


板垣退助は立志社をおこして
民権運動の人々の間で、神様のように
尊敬されていました。

自由党の総理におされたのも
そのためです。

自由党ができたあくる年の1882年(明治15年)
板垣は北海道・栃木・群馬・静岡などを
演説して歩きました。

そして岐阜で演説を行い
その会場を出ようするとき
ひとりの男から、突然斬りつけられました。

この男は、板垣の運動が
国のためによくないと思っていました。

傷は浅く、この男はその場で捕らえられました。
このとき板垣は
「板垣死すとも自由は死せず」
と叫んだと言われています。

しかし、これは板垣が実際に叫んだのではなく
あとでつくられた話だと思われます。



改進党とは?


ひとたび自由党ができると
それにならって、大小さまざまな政党が
つくられるようになりました。

各政党は、それぞれ政治の思想や
やり方を定めました。

自由党は自由主義を激しく唱えて
自由民権運動の先頭にたちました。

自由党に対して、やや穏やかな主義で
社会を少しずつ、改めていこうとする政党は
大隈重信が中心となってつくった改進党でした。

自由党と改進党とが中心となって
この他どちらかに属する小さな政党が
各地に生まれました。

政府でも、政府に味方する政党を
つくりました。

これが帝政党で
御用政党とも呼ばれました。

大隈重信とは?


大隈重信は
肥前藩(佐賀県・長崎県の一部)の出身で
板垣退助と同じように
明治政府の参議をしていました。

一時は、伊藤博文とならんで
政府の中心となっていましたが
国会を早く開かなければならないという
考えを持っていたために
伊藤などと意見があわなくなり
1881年参議をやめさせられました。

そこで、大隈とともに
役人をやめた人々や
同じ意見の人々が集まって
要九年、改進党をつくり
大隈が総理になりました。

大隈のほかに
矢野文雄・島田三郎・犬養毅
尾崎行雄・沼間守一・小野梓などがいました。

中でも小野は改進党の思想を
定めるうえで力をつくしました。

小野は、若いころイギリスに留学して
イギリスの議会政治のことをよく調べました。

改進党は、彼の考え方をもとにして
日本の政治を改めようとしたのです。

大隈重信は、1882年に東京専門学校という
法律の学校を建てました。

大隈は民権思想を基本にした学問を
青年たちに教えて
政治の改革に役立つものを
育てようとしたのです。

東京専門学校は
後に早稲田大学と改められ
福沢諭吉の慶応義塾とならんで
大きな私立の大学となりました。

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