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二・二六事件とは?

今回は二・二六事件について、日本の歴史を紹介します。



思想の取り締まり


日本の教育は、明沿時代から戦争を讃え
子どもたちには、知識を上から教え込むだけで
自分で実際にものを考えるという
習慣をつけない教育でした。

しかし、日本が誤った戦争への道を進むのを見て
日本の将来をたいへん心配する教育者が
各地にあらわれました。

しかし政府は、子どもたちに
正しいことを教える教育者を
厳しく取り締まりました。

また政府は、大学の教授でも
気に入らぬ人をやめさせたりしました。

1933年、文部大臣鳩山一郎は
京都大学の滝川幸辰教授の考え方を
「あか」だとして、教授をやめきせました。

京都大学では、教授も学生も一緒になって
学問の自由・大学の自治を守るため
政府に抗議しました。

しかし、ついに滝川教授・末川教授
恒藤教授ら8人の優れた教授が
京都大学をやめることになりました。




そのほか、1935年には
憲法学者の美濃部達吉
1938年には、経済学者の大内兵衛
1940年には、歴史学者の津田左右吉などが
政府や国家主義者たちから
激しく攻撃されました。

共産主義は言うまでもなく
このように自由主義・民主主義の
考えを持った人たちまでが
ひどい目にあわされるようになりました。

二・二六事件


五・一五事件から、わずかに4年しか経たない
1936年(昭和11年)2月26日
今度は陸軍の若い軍人たちが
やはり東京で大きな反乱をおこしました。

二・二六事件と呼ばれる反乱です。

これらの軍人たちは
自分たちの言うとおりにならない政府を倒し
自分たちに都合のよい政治を行おうとして
いっきに革命をおこそうとしたのです。

この軍人たちが率いた軍隊は
総理大臣・大蔵大臣・内大臣など
政府の中心になっている人々の家や
警視庁・朝日新聞社などを襲い
大蔵大臣高橋是清、内大臣斎藤実らを殺しました。

しかし、事件は数日のうちに鎮められて
中心になった軍人17名は、死刑になりました。

この事件の後、応田弘毅が総理大臣になりました。
広田内閣では、全ての大臣が
国家主義者で固められ
軍部の思いのままに動く政府でした。

こうして、大正のはじめごろから
次第に頭を持ち上げ
政治に口出しするようになった軍人たちは
広田内閣のときになって
ついに日本の政治を
思いのままに動かすようになったのです。


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